秋津野未来への挑戦−はじめに

はじめに

 田辺市上秋津(かみあきず)。そこは、紀伊半島の南部にある海に面した地方都市、かつての三万五千石の城下町田辺市近郊にある地域である。
 この地域に住むひとたちの誇りのひとつが、「あきつの」という、美しい響きの地名である。「あきつの」は、奈良時代の万葉歌人柿本人麻呂が詠んだ歌に登場する地名である。常しらぬ人国山のひとくにやま秋津野の杜若をし夢に見しかも、『万葉集』ゆかりのその土地は「あがらのふるさと」を指してかきつばたいる、と信じるひとたちは少なくない。
 上秋津は高尾山の山麓にあり、地域の真ん中を蛇行を繰り返しながらほぼ東西に、右会津川が流れる。 里山が点在し、家々はミカンやウメなどの畑に囲まれるように建つ。のどかで、なつかしい時間が流れる。 だが、風景だけを目的に訪れた人は、ひょっとすると上秋津の風景にがっかりするかも知れない。なぜならば、一部の景勝地をのぞくと、風景それ自体は、和歌山県をはじめ全国各地で見ることができる、「ありふれた風景」に過ぎないからである。事実、上秋津よりすぐれた景観の地域は、いくらでもある。それでいて、この土地が魅力的なのはなぜだろうか。その理由は、「農と暮らし」の生き生きとした風景にある。そして、地域が育んできた伝統や風土を大切にしながら、新しいものを創造していくことの大切さに、いち早く気づいたひとたちがいて、みずから地域社会を再構築していこうとしている点にある。「住民がみずから主体的に地域をマネージメントしていく」、地域に根ざした独創的なコミュニティづくりがおこなわれている。

 転機は1970年前後にさかのぼる。上秋津で地域づくりの取り組みが本格化するのは、バブル経済が終焉を迎えようとする1989年(昭和64年)。農業経営が岐路に立つなかで、青年たちが集まり、ミカンづくりや農村の危機について口角泡を飛ばして語り合い、試行錯誤の挑戦がはじまったのである。そして、こんにち地域にあるあらゆる団体が参画する秋津野塾を核にして、多様な地域づくりが展開されている。取り組みは地域に活力をもたらし、地域の明日を担うリーダーがいく人も生まれつつある。とはいえ、都市化の進行、膨らみ続ける人口は、「純農村」であった地域の環境を急激に変え、高齢者福祉やこどもの教育などが大きな課題としてのしかかる。また、市町村合併は、ひとびとの生活の場であるコミュニティの再構築を迫っている。地域の主要な産業である農業を取り巻く環境も、楽観は許さない。

 そうしたなかで、秋津野塾と上秋津マスタープラン策定委員会は2002年(平成14年)10月、『上秋津マスタープラン及びマスタープラン策定基礎調査報告』をまとめた。21世紀初頭における10年間の地域の指針づくりをめざしてつくった。費用は住民が捻出し、作業は和歌山大学の教員グループと共同で行われた。内発的な、「民学協働」によるプロジェクトである。小誌は、その『マスタープラン』の調査内容や提案にもとづいて書かれている。
 上秋津とはどういう地域なのか。いま、そこでどのような取り組みがおこなわれているのか。そして、地域づくりがめざす方向と住民たちの思いは…。ここには、地域づくりが転換期を迎えるなかで、住民みずからが課題を洗い出し、未来を切り開こうというすがたがある。地元のひとたちにはもう一度足もとを見つめなおし、これからの地域づくりについて考えていく資料として作成している。地域外の人たちには、紀南の緑残る田園地帯で、住みよい地域社会をめざすひとびとのすがたと思いをお伝えする